ミュージシャンで俳優の吉川晃司さんが、2021年に、狭心症で手術をしたことがありました。
50代に突入してからも、毎日10キロのジョギングと3キロの水泳にと、運動や健康管理にストイックだった吉川晃司さんが、胸に異常を感じ、人間ドックを受けたところ、心臓の血管が狭窄していることから、心筋梗塞を発症する可能性があり、狭心症と診断され、緊急オペをしたことがありました。
精密検査の際、心臓の3分の1が機能していなかったそうですが、手術は無事成功し、その後、経過は良好。
これで一安心ですが、その成功の背景には、神の手を持つといわれている天才ドクターの存在があったといわれています。
その人物とは・・・
吉川晃司さんのオペを担当したのは、かつてドラマ「チーム・バチスタの栄光」を監修し、心臓外科の権威である医師を演じていた時のモデルとなる人物です。
ドラマの撮影当時には、直接演技指導を受けていた医師の存在があります。
吉川晃司さんが狭心症と診断された際も、その神の手を持つ心臓外科医に相談し、“チーム・バチスタ級”のチームが結成され、万全の態勢の下で治療、手術を受けることができました。
その天才ドクターが、誰でどんな凄い医師なのか、注目を集めています。
吉川さんの手術を担当した“チーム・バチスタ級”オペチームリーダー医師は、神の手を持つ心臓外科医の「須磨久善医師」です。
須磨久善医師は、あの天皇陛下の心臓手術を担当した外科医・「ゴッドハンド」天野篤医師の「師匠」としても有名な先生です。
ということで、今回は、吉川晃司さんを助けた神の手を持つ心臓外科医の「須磨久善医師」が一体どんな先生でどれだけの経歴の持ち主なのか、また、ストイックにトレーニングに励み健康管理していた吉川晃司さんの狭心症になってしまった要因・原因を調査していきたいと思います。
これまでの経緯
ファンの皆様へ
いつも吉川晃司を応援いただきありがとうございます。
2021年2月16日(火)、吉川晃司は狭心症の手術を受けました。術後の経過も問題なく、現在はこれまで通りの活動を行っておりますことをご報告致します。
手術は無事終了し、翌日には退院致しました。
主治医、執刀医からも、今後定期的な検査は必要なものの、アーティスト活動には全く問題はないとの説明を受けております。
2021年2月27日に、公式ホームページにて吉川晃司さんが、狭心症を発症していたことを公表しました。
吉川晃司さんは、3年程前から心臓に違和感を感じていたそうです。
そんな中、2020年12月に人間ドックを受けた際、再検査の必要性を指摘され、2021年2月上旬に精密検査を受けました。
精密検査の結果、冠動脈が狭窄(心臓の血管が狭くなっている状態)していることから、緊急オペが必要となり、手術しました。
無事オペは成功し、音楽活動も、これまでと同じようにできるそうです。
ご本人からは、
<<吉川晃司よりメッセージ>>
もう仕事に戻っているので、どうぞ皆さんご心配なく!
放っておけば倒れていたかもしれないところで、僥倖にめぐりあい未然に防ぐことが出来たという強運に心から感謝したいと思います。2021年2月27日
株式会社アクセルミュージックエンターテイメント
という、喜びと安心のコメントが発表されました。
吉川晃司プロフィール
フリガナ | キッカワ コウジ |
---|---|
性別 | 男性 |
生年月日 | 1965/8/18 |
星座 | しし座 |
血液型 | B型 |
身長 | 182cm |
出身地 | 広島県安芸郡府中町出身 |
ジャンル | 歌手・アーティスト 、俳優 |
デビュー年 | 1984年 |
デビュー作 | モニカ (シングル) |
代表作 | モニカ (シングル)/1984年 せつなさを殺せない (シングル)/1992年 KISSに撃たれて眠りたい (シングル)/1993年 アクセル (シングル)/1996年 |
所属事務所 | 株式会社アクセルミュージックエンターテイメント代表取締役社長 |
この、吉川晃司さんが所属している事務所は、個人事務所なのですね。
他に所属タレントさんがいるのかなと思って探してみたところ、吉川晃司さん以外に目立った方は、まだいなそうですが、現在タレントを募集しているようです。
吉川晃司さんの年齢を知って、驚きました。
あの若さで、55歳なのですね。
あと数年で、ちゃんちゃんこを着る年齢とは思えないくらい、大人の色気やセクシーさがある方ですね。
俳優の志尊淳さんも、その吉川晃司さんの管理された身体を見て驚くほどだったとか。
また、志尊淳さんの食生活の管理もしてくれるほど健康も気遣っているそうです。
1分くらいから、吉川さんのお話をされています。
気になるのは、どうしてこれだけ健康に気遣っていた人が、狭心症になってしまうのか、原因と、ここからは、まず吉川晃司さんを助けた天才心臓血管外科医についてご紹介します。
須磨久善医師 経歴・プロフィール (チームバチスタのモデルで監修医師)
須磨久善 経歴
名前:須磨久善
生年月日:1950年3月1日(71歳)
出身地:兵庫県
学歴・職歴
1968年3月:甲南高校卒業
1974年3月:大阪医科大学卒業
1974年4月:虎の門病院 外科レジデント
1978年4月:順天堂大学 胸部外科
1982年7月:大阪医科大学 胸部外科
1984年1月~6月:米国ユタ大学 心臓外科 留学
1989年2月:三井記念病院 循環器外科科長
1991年 新東京病院心臓血管外科立ち上げ 部長
1992年5月 :三井記念病院 心臓血管外科部長
1994年8月~:ローマカトリック大学心臓外科客員教授
1996年10月: 湘南鎌倉総合病院 副院長
1998年1月:湘南鎌倉総合病院 院長
2000年5月:葉山ハートセンター 院長
2005年4月:(財)心臓血管研究所 スーパーバイザー
2012年4月:須磨ハートクリニック 院長
2017年2月:須磨スクエアクリニック 院長
兼任
順天堂大学心臓外科客員教授
香川大学医学部臨床教授
資格
厚生省認定 外国人指導医
学会会員
米国胸部外科学会 (American Association for Thoracic Surgery:AATS)
米国胸部外科学会 (Society of Thoracic Surgeons:STS)
欧州胸部外科学会 (European Association for Cardiothoracic Surgery:EACTS)
国際心臓血管外科学会(International Society for Cardiovascular Surgery:ISCS)
日本冠動脈外科学会(名誉会員)
日本冠疾患学会(名誉会員)
日本心臓血管外科学会(特別会員)
日本心臓病学会(功労会員)
心臓手術症例を5000以上経験し、1986年に世界に先駆けて胃大網動脈グラフトを使用した冠動脈バイパスを開発し、各国で臨床応用が広まる。
1996年、日本初のバチスタ手術を施行。
以後拡張型心筋症に対する左心室形成術を多数行う。
海外での公開手術多数。
「プロジェクトX」、「課外授業-ようこそ先輩」(NHK)などで紹介。
テレビドラマ「医龍」、映画「チームバチスタの栄光」等の医療監修を行う。
2010年、海堂 尊原作をもとに須磨の功績を描いた特別ドラマ「外科医 須磨久善」が放映。同年、日本心臓病学会栄誉賞受賞。
2012年、自著「タッチ・ユア・ハート」を講談社から、2014年「医者になりたい君へ」を河出書房新社から出版。
チームバチスタ・須磨久善医師が、ドクターを目指した理由
須磨医師が、医師になろうとしたきっかけは、中学2年生の時でした。
当時は「他人を蹴落としてでものし上がっていくのが立派な人だ」という風潮の時代でしたが、須磨医師は、どちらかというと、放課後はガキ大将たち追いかけられるような、いじめられっ子で、小さい頃から人と争ったり喧嘩するのが、大嫌いなタイプでした。
そこで出た答えが、将来は、人と競争するような組織や企業で働くのではなく、「患者さんとの一対一で向き合える医者になろう」ということでした。
社会人として、人に喜んでもらう為に、自分には一体何が出来るのかを考えた中で、医師という職業の選択が見つかったのだと言います。
須磨医師が猛勉強をしたのは、高校3年の秋頃とだいぶのんびりなスタートでしたが、数か月必死で勉強をし、晴れて、大阪医科大学に合格しました。
チームバチスタ・須磨久善医師がドクターを目指した理由
須磨医師が、心臓血管外科を自身の専門に選んだ理由は、いくつか理由がありました。
1つは、中学校2年生の時に見た夢の中で、神の啓示があった。
2つ目は、当時高い視聴率を得ていた米国テレビドラマ「ベン・ケーシー」の凄腕外科医にあこがれた。
3つ目の理由は、その海外ドラマに出てくる凄腕外科医によく似た、母校の胸部外科教授だった武内敦郎先生との出会いがきっかけでした。
当時、武内敦郎先生は、四十歳を過ぎたばかりでその臨床講義は活気に溢れていたそうです。
武内敦郎先生の自宅に招かれて、奥様の作ったお料理を食べながら、武内敦郎先生のアメリカ留学の体験談や、日本の遥かに先を行く米国心臓外科の活況についての話を聞き、心臓外科に魅了されたのだと言います。
大学の図書室で、当時米国で開発されたばかりの冠動脈バイパス手術の論文を目の当たりにして「この手術が出来るようになりたい」と強く思い、これらのことから、須磨医師が心臓血管外科のスペシャリストを目指すきっかけとなりました。
チームバチスタ・須磨久善医師が、神の手を持つまでの経緯
1974年4月:虎の門病院 外科レジデント
晴れて医師免許が取れ、卒業後、普通であれば、卒業した大学の医局に入るのが通常ですが、須磨先生の経歴を見ると、なんだか不思議だなと思いました。
東京の虎ノ門病院に勤めているんです。
通常ならば、卒後はそのまま母校の胸部外科教室に入局するものです。
その理由は、当時は、大学に残ると、研修はほとんど表面的なもので、須磨医師は、どうしてもそこで基礎が身につくとは思えなかったそうです。
そこで考えたのが、
そしてすぐに、虎の門病院の外科レジデントの採用試験を受け、研修がスタートしました。
虎の門病院では、4年間の研修医期間中に、胃癌や乳癌をはじめ様々な手術の執刀を経験させてもらえたそうです。
ここでは、手術の本質と磨くべき技術の方向性、責任の重さを痛感し良い経験ができたといいます。
虎ノ門病院での研修医期間の4年間を終えたのち、当時の循環器科の部長先生から、こんなアドバイスの言葉をもらいました。
「須磨君、心臓外科、特に冠動脈バイパス手術を学びたいのなら順天堂の鈴木章夫教授のところに行くべきだ」
数週間悩んだ後、順天堂大学へ行き、鈴木教授の面接を受けた際、いわれた言葉が衝撃的でした。
「助手のポストはない。すなわち無給ということだが、それでいいかね?」
その質問に思わず「はい」と言ってしまった後、武内教授と私の妻にどう説明したらと慌てたそうです。
この時、すでにご結婚されていたのですね。
須磨医師は25歳の時にご結婚されていて、医療関係者ではないそうですが、須磨医師をよく理解してくれる素敵な奥様のようです。
虎ノ門病院とは相反して、順天堂大学の胸部外科に在職した4年余りの間は、心臓のオペは全て教授が執刀し、助手の立場ではオペには携わらせてもらえなかったそうです。
このままだと心臓外科医として、成長が遅くなると焦っていたそうです。
1984年1月~6月:米国ユタ大学 心臓外科 留学
順天堂大学で4年が経過した頃、師匠の鈴木教授が母校の東京医科歯科大学に戻られるという事で、須磨医師も母校に戻ることになります。
母校に戻ったところ、その状況は厳しく、医学部を卒業して私も10年にもなるのに、大学病院で心臓の手術を執刀させてもらえる機会が一向に来ないことから「このままだと一人前には慣れない」という思いで、アメリカ留学を決意しました。
そして知人を介して、ユタ大学の関連病院で有数の心臓外科チームを持つLDS病院に臨床留学できることが決まりました。
しかも、冠動脈バイパス手術や弁膜症の手術に参加させてもらえるという資格での留学でした。
日本では、30過ぎの若手医師が、冠動脈バイパス手術や弁膜症の手術を執刀させてもらえることはなかったそうです。
須磨医師は、ユタ大学医学部最大の関連病院で、心臓手術症を4年程経験し、日本へ帰国しました。
アメリカ留学を終え母校で、冠動脈手術の研究に没頭していた時に、国内でもようやく、チャンスがきます。
35歳の時に、やっと自分のチームを作って冠動脈手術を任せてもらえるようになりました。
以降のキャリアは、以下の通りです。
1992年5月 :三井記念病院 心臓血管外科部長
1994年8月~:ローマカトリック大学心臓外科客員教授
1996年10月: 湘南鎌倉総合病院 副院長
1998年1月:湘南鎌倉総合病院 院長
2000年5月:葉山ハートセンター 院長
2005年4月:(財)心臓血管研究所 スーパーバイザー
2012年4月:須磨ハートクリニック 院長
2017年2月:須磨スクエアクリニック 院長
須磨医師が神の手を手に入れられたのは、自ら学ぼうという意思と、日本は海外と比べて10年は遅れている為、海外留学で実力をつけようといった正しい判断と努力による、自己プロデュース力にあったのですね。
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吉川晃司が患った狭心症って、どんな病気でどんな治療をしたの?
吉川さんの症状は、心臓表面の冠動脈の狭窄(狭くなる状態)で緊急の治療が必要と診断されオペをされました。
今回は、手首から、直径2ミリ程のカテーテルを通し、冠動脈狭窄部位にステント(金属チューブのようなもの)を留置する、冠動脈ステント留置術が施行されました。
吉川さんよかった pic.twitter.com/U15IpvbszM
— ai (@oRzqz9kpitRpsB8) March 1, 2021
ステントを入れて血管を拡張することで、酸素や血液が詰まることなく流れるようになるという治療です。
吉川さんのオペはステントですね pic.twitter.com/Q58CDFvsel
— ai (@oRzqz9kpitRpsB8) March 1, 2021
吉川晃司が狭心症になった原因は?
吉川晃司さんが、狭心症になった原因は、狭心症のリスクになりやすい傾向の体質だったのではないでしょうか。
荻窪病院の澤先生によると、狭心症になりやすい人は、
①コレステロールが高い
②油物が多い食生活
③ストレスが多い
④脱水症状になりやすい
⑤怒りっぽい
⓺70代の男性
の人が、かかりやすいと言われいます。
吉川さんお大事に pic.twitter.com/srSIwE6EW8
— ai (@oRzqz9kpitRpsB8) March 1, 2021
吉川晃司さんは、食生活にはかなり気を使っていることでも有名です。
オーガニック商品を扱う専門店へ。刺身やトマトを選び、レジでマイ保冷バッグを出すという家庭的な一面も。その後、近くの高級スーパーへ。
「入り口でアルコール消毒をした後、肉、ネギ、キャベツ、納豆、ワインを買っていました。ピンクのワインは奥さん用かも。レジに並ぶ間、片足を上げてキックする手前の運動をしていました(笑)。でも、誰も吉川さんだと気づいていませんでした。イマドキ珍しく、ガラケーを使っていました」(居合わせた女性客)
2軒のスーパーをハシゴしオーガニック食品や栄養満点の食材を選ぶあたり食生活にも人一倍、気を遣っている。
※朝日新聞院引用
そのため、狭心症の原因が『①コレステロールが高い』と『②油物が多い食生活』は、考えにくいですね。
ただ気になるのが、志尊淳さんに糖質制限についてアドバイスされていたので、時に糖質制限をしていた可能性はあります。
私が予防医学の仕事をしていた際、糖質制限していたお客様の多くが、血管年齢上がっていました。
ストイックに糖質制限をしてしまうと、かえって血液がドロドロになり、心臓や脳に負担をかけてしまうので、その点がちょっと気になります。
荻原貞雄さん(69歳・仮名)は、現在、半身不随で療養型病院に入院している。そこに至った原因が糖質制限によるものだったのではないかと語るのは、荻原さんと長年の付き合いがあるかかりつけ医だ。
「荻原さんは中肉中背で、特に肥満が気になるわけではありませんでした。一日5kmのジョギングが日課で、運動も十分やっていた。そのままの生活を続けていても健康に問題はなかったでしょう。
ところが’08年、ブームに乗って糖質制限ダイエットを始めたのです。荻原さんは半年で6kgも痩せ、かなり細い体つきになっていました。本人もその変化に非常に満足そうでした」
だが、ダイエット開始から4年目の夏、荻原さんは突然病魔に倒れた。脳卒中だった。
「頸動脈の血管エコー検査をしたところ、ひどい高脂血症が判明。血管の壁が1・8㎜の厚さになっている部分もあった。重度の動脈硬化が引き起こした脳卒中だったのです」
荻原さんの身に、一体何が起こったのか。かかりつけ医が続ける。
「一般的に、糖質制限をするとカロリーを補うために脂質やタンパク質を大量に摂るようになります。すると、血管に悪玉コレステロールが溜まっていく。その結果、血管が傷んだり老化が進んだりして、脳梗塞や心筋梗塞を起こす可能性がどんどん高まっていくんです。
※週刊現代引用
吉川晃司さんも、毎日10キロ走ったりストイックなだけに、体への負荷と、ライブが多いことから脱水症状になりやすい環境であることから、狭心症を引き起こしたのではないでしょうか。
心臓疾患や脳梗塞で倒れると、7割の人が後遺症を残す実態がある為、倒れる前の早めの治療ができて、本当に良かったですね!
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吉川晃司のチームバチスタモデル医師は心臓外科の須磨久善で経歴が凄い!なぜ狭心症になった原因や症状は?まとめ
まとめますと、
・吉川晃司のチームバチスタ医師は誰?については、元大阪大学出身でが全米で実力をつけた心臓外科の医師・須磨久善。
・須磨久善は、天皇陛下の心臓を手術した天野医師の師匠。
・吉川晃司の狭心症の原因は、ストイックな健康管理によって血管に負担がかかっていたのではないか。
・吉川晃司は3年前に自覚症状があり、2020年12月に人間ドックを受け、2021年2月に精密検査を受け、3割機能していないことから、緊急オペが決まった。
オペは無事成功して、翌日には退院、音楽活動に支障はない。
という事です。
本当、倒れずに早めに治療ができてよかったです。
吉川晃司さんが一番賢かったのは、きちんと人間ドックを受けていたことにあります。
わたしたちも、コロナ禍ではありますが、病気は待ってくれませんので、自分の健康を過信せず、人間ドックはできるだけ毎年うけないといけませんね。
そのことを、吉川晃司さんの病気が教えてくれました。
どうかお大事にされてくださいね。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。