不動産業界史上最年少・最短で上場を果たし、現在、売上高200億円を超える不動産業界の帝王、杉本宏之さん。
リーマンショックで赤字400億円を再起させた、根性と力のある経営者です。
若くして成功を掴んだ杉本宏之さんですが、その成功の鍵が、生い立ちによる壮絶な人生にありました。
では、杉本宏之さんの成功の鍵となった生い立ちとは、一体どんなものなのでしょうか?
今回は、杉本宏之さんにスポットを当て、年収や資産、成功の鍵となった生い立ちや学歴を含めた経歴や自宅を、徹底調査してご紹介します。
杉本宏之のプロフィール・学歴はなぜ高卒なのか理由は?
杉本宏之プロフィール
名前:杉本宏之(すぎもと ひろゆき)
生年月日:1977年6月25日 ※2021年6月で44歳
出身地:茨城県守谷市生まれ
出身大学:川崎総合科学高等学校 情報工学科卒業。高校を卒業後は、奨学金制度を使って不動産関連の専門学校へ進学し、1年で宅建を取得し、働く為自主退学。
職業:実業家 株式会社シーラホールディングス(旧SYホールディングス)取締役会長。
株式会社エスグラントコーポレーション元代表取締役社長
杉本宏之 経歴・キャリア時系列
1996年19歳 投資用ワンルームマンション販売会社に就職。
1999年22歳 トップ営業マンとなる。
2001年24歳 株式会社エスグラントコーポレーションを設立。
2005年28歳 12月20日、試練を乗り越え、名古屋証券取引所セントレックス市場に不動産業界史上、最短、最年少で上場を果たす。
2008年31歳 リーマン・ショックの煽りを受け、2009年3月に民事再生法の適用を申請し自己破産。約400億円の負債を抱える。
2010年33歳 SYホールディングスを設立し、グループ7社、売上高200億円を超えるまでに成長。
今では凄腕社長として有名な、杉本宏之さんですが、幼少期は非常に貧しい家庭で育ちました。
その為、杉本さんの学歴は、よくある社長たちのような、高学歴な大学出身者ではありません。
父親の蒸発や、母親の死に遭遇した杉本さんの人生は、壮絶でした。
真面目に働かなくなった父親に反抗するように、不良グループとつるむような高校時代でしたが、あることをきっかけに、真逆の人生を目指そうと高校三年生の終わりから必死で勉強を始めます。
大学になんとか補欠合格したのですが、生活資金の為に「早く社会に出たい、4年間の学生生活は長すぎる」と判断し、大学へは進学せず、宅建の取れる不動産業界に精通した専門学校に進みました。
さて、ここからは、杉本さんの幼少時代から、就職するまでの壮絶な人生を振り返ってみましょう。
幼少期
もともと不動産会社社長だった杉本宏之さんの父親の会社は、そこそこ順調だったのですが、ワンマンなやり方に反抗した専務が、社員を引き連れ独立してしまった事をきっかけに、会社が傾き、倒産してしまいます。
これまでの豊かな生活から一変し、杉本宏之さんが3歳の時に、父親が多額の借金を抱え、自宅も売却。
父・母・一人っ子の杉本さんの親子3人で6畳一間、風呂無しの埼玉県川口市のアパートで、極貧生活が始まりました。
良い暮らしから、貧乏暮らしでも辛いのに、さらに追い打ちをかけるように、借金取りがアパートに来る日が続きました。
小学生のころに、神奈川県に引っ越しますが、苦しい生活は変わらず、生活を支えるため、母親がパートに出て、働き詰めの生活を送っていました。
そんな生活を繰りかえしているうちに、杉本宏之さんが13歳の時に、母親は、自分の健康を顧みる時間がないまま、末期の胃がんを患い、わずか2か月後で亡くなってしまいました。
大切な母を失った杉本さんは、その時のことを思うと、今でも胸が苦しくなるそうです。
杉本宏之の生い立ちが壮絶すぎる
父親は、「売主」を見つけて不動産業者に紹介するといった、いわゆるブローカーの仕事をしていましたが、定職にはつかず、借金は増える一方です。
学費の為に、アルバイトを掛け持ちしながら高校に通う杉本宏之さんの稼いだお金を、父親が要求してきた事から口論になり、なんと父親が杉本さんを刺したこともあったのだそうです。
というか、もはやよく報道されてるやつじゃん
「お前を刺して俺も死ぬ!」。「脅しか!刺せるもんなら刺してみろ!」と父に向かって叫んだ瞬間……。私の左手から真っ赤な血が畳の上に滴り落ちているのが見えました。血だらけになった私を見て、父も我に返ったようです。父は、涙目で震えながらただ呆然と立ち尽くしています。「俺たちいったい何をやってるんだよ!」。最悪のどん底にいる自分……。
※出典:ドリームゲート
この頃の杉本さんの気持ちは、相当荒れていたので、不良グループの仲間に入り、喧嘩や素行の悪さから停学になったこともありました。
真ん中が、杉本さんですね。
ちなみに、チーマーってこの時代は、女子からすると、ちょっといけてる人多かったんですよね。(元渋谷女子高生代表)
みんなが思うほど悪じゃない人の方が多いようなグループです。時代ですね。
杉本さんは、チーマーでしたが、父親から刺された事を機に、自らの力でこの生活から抜け出さなければと、初めて真剣に将来を考えるようになります。
そして不良グループの後輩の死に遭遇し、17歳の冬に不良グループを脱退しました。
幼少時代からずっと、貧しい生活をしてきたからこその発想でした。
これまでとは、真逆の人生を目指してみようと、高校3年の後半から必死で勉強を開始。
高校を卒業後は、生活の為に大学へは進学せず、父親と同じ不動産業界で生きていくことを決断し、1年目に宅建主任者資格を取得しました。
杉本宏之さんが、父親と同じ不動産業界を目指した理由は、『父親が失敗したのは時代が悪かった。自分が働きだした時代には上向きになる』と思ったからだそうです。
自分ならできるといった、根拠のない自信があったのではないでしょうか。
そんなある日、求人広告の「完全歩合」という言葉に引かれ、すぐに応募し、採用が決まる専門学校へはわずか1年で自主退学をつけ、就職をします。
生活に切羽詰まっていた人生を送ってきただけに、学校をやめる事に、迷いはなかったようです。
努力した分が自分に返ってくるインセンティブ制は、杉本宏之さんにとってとても意味のあることだったのですね。
杉本宏之が3年でトップ営業マンになった経歴と起業したきっかけ
杉本宏之さんは、入社するとまもなく、父親が初任給の半額ほどを勝手に引き出し蒸発してしまったそうです。
お父さん、現在はどうしているんだろう・・・
家族がいなくなり、一人で生きていけなくなったことから、人一倍努力しました。
営業成績で成果を出すことができ、サラリーマン入社3年目にはトップ、年収はすでに2000万円にも達していたのだそうです。
ちなみに投資用ワンルームマンション販売の世界では、アポイント数の10~15%が契約となると言われています。
私は必死になって電話営業をし、毎月約20件のアポイントを取り続けました。しかし、上司に同行してもらい営業に出向くのですが、なかなか契約に至りません。
当時も勢いだけはありましたから、「この上司が悪いんだ」と文句ばかり言って、その上司とケンカしたり。
挙句の果てに部長からは、「やれると思ってたが、お前、期待はずれだったかもな」と……。もう辞めようかという考えも頭をよぎりましたが、なんとか踏ん張って入社半年後についに初契約。それも立て続けに2件も。
アポイントの質も上がっていたのでしょう。
それから私の快進撃が続いていくことになります。
杉本宏之さんは、トップになるまでの3年間、必死で努力をしてきました。
営業の世界は、本当に努力と運でなりたっています。
でも、営業の世界って、そこがおもしろいんですよね(←元営業マン)
年収2000万も会社で稼いでしまうと、もうこのままでもいいかなって人は思うのですが(←経験者)、杉本宏之さんに、転機が訪れます。
2001年9月11日米同時多発テロが起こります。
その時、杉本宏之さんは、旅行でラスベガスに滞在していて、もし自分が違う便に乗っていたら、巻き込まれていた可能性もあったそうです。
そう、ニアミスです。
その時に、命の儚さや、やりたい事を先延ばしにしたら後悔すると思い、起業を決断します。
そして、2001年12月、独立して株式会社エスグラントコーポレーションを設立し、デザイナーズワンルームマンションに特化した不動産販売の開発を皮切りに、次々に事業を展開していきました。
しかしリーマンショックのあおりを受け、2009年、400億円の負債を抱えた杉本宏之さんは、実上の倒産となりますが、2010年、株式会社シーラホールディングスを設立し、復活します。
2019年1月現在、グループ企業7社をかかえ、売上高200億円以上の「シーラホールディングス」の会長を務めています。
倒産したときは、人が、一気に離れていった経験をし、その時は、裏切られたと感じたそうです。
一方で、意外な社員が味方になってくれたり、それが助けにもなり、仲間が手を差し伸べてくれた事から、彼らのためにも二度と失敗はできないと感じていると言います。
近い将来は、そんな仲間たちが安定した生活ができるように、自社賃貸ビルを増やして家賃収入と管理だけで社員を養える状態にしたいと、様々な戦略を練っているようです。
杉本宏之の自宅の場所はどこ?
冗談はさておき、実証しますね。
一部報道によると、深田と杉本氏の出会いは昨年11月ごろで、もともと杉本氏が深田のファンであったことに加え、都内にある互いの自宅マンションが徒歩数分と近距離だったこともあり、急接近したとか。
※出典:ライブドアニュース
2019年のライブドアニュースによると、杉本宏之さんの自宅が、当時交際していた深田恭子さんの自宅と、徒歩圏と言われています。
そこで深田恭子さんの自宅を調べると、
麻布十番(港区)にある高級スーパー。7月下旬の夜8時半過ぎ、サングラス姿の女性が出て来た。深田恭子(36)だ。
画像を見たい方はフライデーの画像をご紹介しますね。
https://friday.kodansha.co.jp/article/59142/photo/0b47f9b5
車での移動ではありましたが、食材って、自宅から遠いところで買わないので、距離があっても車で5分~10分圏内でしょう。
また、別の日の報道によると、今度は六本木のスーパーに買い物に来ていた深田恭子さんの姿がキャッチされています。
芸能人の出没率が高い六本木(港区)の高級スーパー。5月中旬の夕方5時半過ぎ、ミニスカから美脚を露(あらわ)にした女性が入って行った。深田恭子(37)だ。
ピンクの財布とヒョウ柄カバーのスマホを手にした深田は、カートを押しながらゆっくりと店内を回る。紙袋二つ分にも及ぶ大量の食材の他、ボトルワイン2本もお買い上げしていた。交際が報じられている不動産会社会長の杉本宏之氏(42)と乾杯するためのものだろうか。
※『FRIDAY』2020年6月19日号より
こちらも画像をご用意しました。
https://friday.kodansha.co.jp/article/118254/photo/cee8e410
清算している後ろ姿にもオーラがありますね。
https://friday.kodansha.co.jp/article/118254/photo/e693f102
深田恭子さんが行っていたスーパーはどこ?
深田恭子さんが車で行っていた方の麻布のスーパーは「ナショナル麻布スーパーマーケット」ではないでしょうか。
ナショナル麻布スーパーマーケット
東京都港区南麻布4-5-2
なぜなら、深田恭子さんの画像に映っている画像の紙袋でわかります。
都内に3店舗を展開する高級スーパーマーケットで、芸能人も御用達のスーパーマーケットとしても有名です。
わざわざ車に乗ってまでここに来る理由は一般のスーパーと違うから。
その違いは
①袋が紙袋
②駐車場が、高級ホテルと同じ「バレーパーキング」。
入口でスタッフにカギを預けるだけで、駐車しておいてくれるサービスです。
毎月数頭しか日本に輸入されていない超貴重なUSDA(米国農務省)認定オーガニックポークが限定入荷です。
一切の抗生物質、ホルモン剤を使わず、有機農法で作られた大豆やコーンなどの穀物で大切に育てられたオーガニックポークをぜひお試しください。#オーガニック #オーガニックポーク pic.twitter.com/qlI0FJFMGy— ナショナル麻布スーパー (@NATIONAL_AZABU) February 26, 2021
二度見必至!
ドミニカ共和国産の
超巨大なアボガドが入荷しました!
お母さんにアボガド買ってきてと頼まれてコレを買って帰ったら絶対に怒られるヤツです!笑 pic.twitter.com/RG7Qtk5Tu4— ナショナル麻布スーパー (@NATIONAL_AZABU) December 23, 2020
なぜ、徒歩圏のスーパーでばなくて、わざわざ車に乗ってでもこのスーパーに来るのか、理由がわかりましたね。
店内は異国の雰囲気にあふれていて、普通のスーパーには売っていない、海外の商品がたくさんあるので、深田恭子さんは、六本木のスーパーと、この麻布のスーパーを使い分けているではないでしょうか。
つまり、深田恭子さんと、杉本宏之さんのご自宅は、六本木寄りの港区にご自宅があるのではないでしょうかね。
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次は年収・愛車・経営状況に続きます。