みなさんは「神崎恵」さんをご存知でしょうか?
美しすぎる、究極の美のカリスマ「神崎恵」さん。
幅広い年齢層の女性から絶大な人気を誇り、とても40代とは思えないキュートな魅力のベールに包まれた美容研究家さんです。
先日も、神崎恵さんの美容講座に参加してきましたが、実物のかわいさといったらなんとも言えない、華やかさがありました。
今回は、美のカリスマ神崎恵さんについてまとめました。
目次
神崎恵さんのプロフィールは?
神崎 恵(かんざき めぐみ )
生年月日:1975年12月13日
神奈川県出身の美容研究家
1993年、第2回ヤングジャンプ『全国女子高生制服コレクション』にてグランプリを受賞した事で芸能界へ。
元アイドルですが、それほど売れてはいなかったようです。
20歳で芸能界引退し、2010年14年ぶりに美容家として芸能界復帰。
現在は美容・健康関連の雑誌記事にて活躍中の美容家。
旦那さんは、ヘアメイクアップアーティストの河北裕介。
神崎恵さんの略歴

23歳 当時 横浜Fマリノスサッカー選手の遠藤彰弘さんと結婚
24歳 長男を出産 ママ雑誌の読者モデルを務める
27歳 次男出産
28歳 離婚を意識する でも経済面が不安で踏み出せない
29歳 別居 (考え方の違いから会話もできない状態に すれ違い)
34歳 離婚成立
35歳 美容家としてデビュー
38歳 メイクアップアーティスト 河北祐介さんと結婚
39歳 3男を出産
神崎恵さんの年齢は?
もちろんアラフィフには見えませんが、神崎さんは、いわゆる、20代にしか見えないかわいい人というよりも、『とてもいい年齢の取り方=美しい年齢の重ね方』をされているところがとても魅力です。
だから憧れる人が多いのですね。
神崎恵さんの昔はアイドル・20歳で芸能界を引退した理由
1993年、第2回ヤングジャンプ『全国女子高生制服コレクション』にてグランプリを受賞した事がきっかけで芸能界へ入りました。
3~4年程活躍しましたが、自分が芸能界で特別な武器がない事が辛くなっていったそうです。
特に当時の芸能界では、女同士の闘いも熾烈で、結局体調を崩し、入院療養してしまったという神崎恵さん。
『体力的にもメンタル的にももう限界』となり20歳で芸能界を辞める事にしたそうです。
神崎恵さんの転機・美容家になったきっかけ(芸能界引退後は何をしていたの?)
さらに結婚をしてみると、自分よりも旦那さんをサポートする側になります。
自分ではなく、誰かの為に生きなきゃいけないんだと違和感を感じていった神崎さん。
子どもが生まれて"ママ"とか"奥さん"と呼ばれる生活の中で、自分の色があせていくような感覚に、戸惑いを感じるようになっていったそうです。
自分の道が見つからない。自分を変えたい。でも変われない。
そこで仕事をしたいと思い、当時はいろんな職種へのなり方を、読みあさっていたそうです。
学び終わるまでの時間やお金、資格を取ってから職業にするまでのハードルの高さを知り、さらに迷い悩みます。
社会から必要とされる自分になり、自信が欲しかった神崎さんが最初に目にしたのが、ブライダルフラワーアーティストの作品集でした。
すぐにスクール受講を決め通いますが、神崎さんの願う仕事とは違って、今一つピンときません。
そんな中、友人から、ママ雑誌「Como」の読者モデルのオーディションの話を聞き、チャレンジする事にしました。
オーディションに通過し読者モデルを経験する中で、これまで専業主婦だった神崎恵さんにとって、久しぶりに個人の名前を呼んでもらい自分という存在を実感できた事は、息を吹き返すような感覚に満たされたそうです。
そして自分を取り戻す事が出来た神崎さんは、より自分らしくを求めて、ブライダルプロデューサーのスクールへ通う事を決めました。
しかし、ブライダルプロデューサーの仕事は、土日はほぼ仕事、平日の夜は打ち合わせで、なかなか子供との時間は取れない事を知り、断念します。
(書いてて思ったのですが、それは通う前から分かっていると思うけど、調べなかったのですね(;^ω^)チャーミングですね( ´艸`))
神崎さんの自分探しは、まだまだ続きます。
簿記や宅建など、神崎さんのイメージのない、スクールにも通ってみたそうです。
簿記や宅建の仕事を検討した理由は、このころ離婚への舵をきりはじめていた為、安定した経済力をと人から勧められてためでした。
しかし、決まって感じるのは、「もっと好きな仕事をしたい」という思い。
もう一度人生をやり直すのだから、妥協はしたくなかったそうです。
わかる。。。
そして神崎さんは好きな事=美容を仕事にしていくことを決断します。
芸能界で経験した武器のない自分を打破。
経験のない自分がどうやってその世界を切り開いて行くことが出来るのかと考えます。
他の人とは違う独自の知識という、自分だけの武器を身に着けようとひらめきました。
ドラックストアなどでコスメを買い、自分で試し、使用感や変化・仕上がりなど細かくデータにしていき、オリジナルの知識を増やしていきました。
自分への投資を惜しまず、勉強をしていくのです。
つぎに、身に付けた知識を発信する事を始めます。
当時、行っていた読者モデルの雑誌Comoの編集長に提案しました。
「ママ美容」をやりたい。
ママにうれしくやさしい美容情報を伝えていきました。
さらにそのころ、眉とアイラッシュデザインスクールにも通い始めます。
「今ないもの」「新しい言葉」を作り発信していく事で可能性が広がっていきました。
神崎恵さんの一番大きな転機は、ママ向けの雑誌から声がかかり、神崎さんの美容術が紙面で紹介された事だったのですね。
多くの読者から“神崎さんの美容がおもしろい”“真似したい”といった声が届き、これが現在の神崎恵さんの今の仕事にもつながっているそうです。
当時の神崎さんの思いは、

限られた時間の中でいかに美容をやっているか。
そんな私と同じ境遇にいる女性たちはとても多いのです。仕事しながら子育ても完璧にこなすのは無理だし、美容をきちんとするのはもっと難しいですよね。
そんな弱いところを全部知ってもらったことで共感してくださる方たちがいたんです」
神崎恵さん離婚理由 離婚も転機
離婚をしていなかったら、今の神崎さんはいなかったかもしれません。
離婚原因について

実は5年前から別居していました」
と語っています。
元旦那の彰弘さんは、当時、横浜マリノスの中心選手としてセリエA・セフレレッジーナに移籍した中村俊輔(31)の背番号10を受け継ぎましたが、ケガに泣き、苦悩していた時期でした。
神崎恵さんが家庭や将来のことを話し合いたいと思っても、まともに話ができず、結局、2人目の男児が生まれてすぐに別居してしまいます。
弁護士を通じて話し合いを続け、5年の歳月をかけて今年3月に協議離婚が成立されたそうです。
離婚成立後も遠藤さんからは、裁判で決定したはずの養育費の支払いはなく(ヒド!)、小さな子どもたちと神崎さんの3人での生活が始まりましたが、女で一つで子供を育てていく事がどれだけ過酷かを痛感したそうです。

神崎恵さんは性格的に"だめだからすぐに別れる"というタイプではない上、両親はそろっていたほうがいいな為、離婚を決断するまでに何年も考え時間がかかったそうです。
そんな時、お子さんからの言葉が響きます。
神崎恵さんは、結婚生活をしていく中で、たくさん我慢していたそうです。
でも、あるとき、ママ友と会っていたら長男が『あ、ママ笑ってる』って言った事を聞き、ハッとしたそうです。
「私っていつも笑ってないんだ・・こんなこと言わせちゃいけない。このままじゃダメだと」
お子さんの言葉で、目が覚めたんですね。
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